小西達也トレーナー物語 Vol.2
こんにちは!
広島市中区橋本町のパーソナルジムgiftの小西です😊
今回は「小西達也トレーナー物語」の続きです!
前回は、20歳で広島を離れて大阪へ就職し、母と一緒に新生活の準備をした後、新大阪駅で母を見送ったところまで書かせていただきました。
今回はその続き、
「夢だったパーソナルトレーナーとしての第一歩」について書いていこうと思います🖋
4月になり、ついに入社式の日を迎えました。
余談ですが、前日に気合いを入れて、支給されたトレーニングウェアにわざわざアイロンをかけたことを覚えています。笑
今思えば必要なかったのですが、当時の自分にとっては、そのウェアがこれからトレーナーとして働くための大切な戦闘服のような感覚でした。
同期は全員で5人。
身体がすでに仕上がっている人や、体育会系で初対面でも周りとすぐに打ち解けられる人ばかりでした。
要するに、自分から見るとかなりの陽キャ集団です。笑
一方の自分は、大人数の中で器用に立ち回ることが苦手でした。
同期の輪にもなかなか入れず、お昼休みは毎回一人で外へ食べに行っていました。
今思えば、それまで集団生活から逃げてきた部分もあったのだと思います。
ほどなくして、心斎橋店での研修が始まりました。
先輩からマシンの使い方や接客の仕方を教わりましたが、実際の仕事の多くは、トイレ掃除やマシンの拭き掃除、鏡の手垢落としでした。
トレーニングエリアに立っていても、お客様からマシンの使い方を聞かれることはほとんどありません。
「自分はパーソナルトレーナーになるために大阪へ来たはずなのに、何をしてるんやろう」
そんな違和感が少しずつ大きくなっていきました。
研修後、僕は新しくオープンする玉造店へ配属されました。
当時は玉造に住んでいたため、「家から近いしラッキーやな」と軽く考えていました。
同期と離れられることにも、少しホッとしていました。
でも、ここからが本当にきつかったです。
朝6時から駅前でティッシュを配り、そのまま通常勤務に入り、終わるのは夜23時頃。
先にタイムカードを切って、その後も働く日もありました。
多い日は、1日に約2000個のティッシュを配っていました。
受け取ってもらえないのは当たり前で、目も合わせず避けられることもあります。
一度、渡したティッシュを目の前でぐちゃぐちゃにされたこともありました。
「この人、やばいやつやな」
と、普通に思いました。笑
途中からは、ティッシュを見ることさえ嫌になっていました。
もちろん今なら、新店舗を知ってもらうために必要な仕事だったことも分かります。
ただ、当時の自分にはそれを受け止める余裕がありませんでした。
オープン前の薄暗い店舗でチラシ入りのティッシュを詰め、それを持って商店街や駅前で配る。
トレーナーとしての仕事ではなく、掃除やティッシュ配り、長時間勤務によって、心も体も削られていきました。
休みの日も、大阪には友達がいませんでした。
仕事の愚痴を言える相手もおらず、ただ一人で家に帰って寝て、また仕事へ行く。
休みの日であっても、全然休んだ気になりませんでした。
この頃によく聴いていたのが、長渕剛さんの「STAY DREAM」です。
ノートに自分の思いを書き、それを玄関に貼って、家を出る前に自分へ喝を入れていました。
そんなことをしながら、なんとか耐えていました。
そして迎えた5月1日。
玉造店のオープン日です。
僕は、その大切な日に無断欠勤をしてしまいました。
もちろん、社会人として絶対にしてはいけない行動です。
ただ、当時は布団から起き上がれず、会社に連絡する気力さえ残っていませんでした。
「行かないといけない」
「連絡しないといけない」
頭では分かっているのに、体が動きませんでした。
完全に限界だったのだと思います。
どうにもならなくなり、母に相談しました。
すると母は、
「広島に帰っておいで」
と言ってくれました。
その言葉を聞いた瞬間、「もう頑張らなくていいんだ」と、少し安心したのを覚えています。
僕は会社に連絡するより先に、午前中の新幹線に乗って広島へ帰りました。
翌日、上司へ連絡し、大阪でのトレーナー生活はわずか1か月で終わりました。
20歳で広島を離れ、
「ここで実力をつけて、絶対にのし上がってやる」
と意気込んで大阪へ行った自分。
でも現実は、たった1か月で退職。
そして無職になりました。
正直、かなり情けなかったです。
あれだけ大きなことを言って大阪へ行ったのに、何も成し遂げられませんでした。
僕のトレーナー人生は、最初の一歩目から見事に大コケしてスタートしました。
この話の続きは、また次回にしますね。

